ジャグリングって、ただボールを投げることじゃないんだよ。自分の内側の世界の表現なんだ。君がこわばっていたら、投げ方もこわばって、退屈になる。君が開いていたら、もっと新しいことを試すようになる、もっと広く、もっと高くジャグリングするようになる。ジャグリング — それはどこにでもある。君はいま自分で録音機を切り替えて、考えもしなかった、ボタンを押して、それで終わり。でもそれをいろんなやり方でできたはずなんだ、下から、横から、まだ別のふうに — それはもうジャグリングなんだ。あるいはいま草の一本を持って、手の中で自動的に回している、でも別の回し方もできる。手から手へ、あるいは僕らの誰かへ、いろいろなふうに渡すこともできる。これももうジャグリングになる。2014年のインタビューからの引用、モスクワ、作者 デニス・ポグレブノイ

これを精度の限界まで展開するなら、ジャグリングとは、保持しないまま状態が連続して現前していることであり、そこではコントロールは握ることによってではなく、注意、時間、そして瞬間の選択によって生まれる。だから注意のどんなズレも、すぐに動きの形として、高さとして、広がりとして、その事実そのものとして現れる — 行為が起こっているのか、それとも崩れているのか。

だからこそ複雑なシステムでは、手で保持できるよりも選択肢が多い場所では、注意が唯一の制御の道具になる。それは加速のためではなく、意図を失わないためで、そうでなければ動きは自動性へ変わり、自動性はフォーカスの喪失へ変わる。そこではもう自分が導いているのではなく、自分が導かれている。ただしそれもまた、意識された動きと意図があるなら、芸術的な手法として使うことができる。

なぜ私はここにいるのか?